俺の言葉のゆりかご

ネット制限によってワクワクを取り戻す!

「考えるな!感じろ!」とはこのことか!?30過ぎの俺が、女子学生と目が合い、ドキッとするなんて!

これから書き進める話しは、

30過ぎのある男が実際に経験したノンフィクションである。

 

私は、休日時々図書館に出掛ける。

といっても、人混みが嫌いなので、

ほとんど人がいない、山間部の田舎にある図書館に向かう。

 

私は今日、そこで奇妙な経験をした。

 

私は仕事が休日の日、特に用事がなければ、家にいることがどちらかというと多い。

けれどこういう私でも、ずっと家にいるとゆううつになってくる。

なんとも言えない倦怠感と無気力に囚われてしまうのだ。

こういうときは強引に外出するに限る。

 

そんなこんなで、

私は正午を過ぎたあたりに図書館に到着した。

田舎の図書館というのは、ほぼ人がいない。

私はそれを狙って行くのだが、

休日は小学生ぐらいの子供たちや親子連れ、老人などが

ぽつぽつと見られる。

でも山間部の田舎の図書館とあって、若い人はまったくいない。

働き盛りの年齢層や遊び盛りの中高生はまったくいないのである。

いるとすれば私ぐらいだ。

 

私は図書館に行くとき、読もうと思った本を持参していく。

なぜかというと、私が図書館に行くのは、図書館の本を読むためではなく、

自分が持っている本の読書に専念するためである。

 

けれど、それがいつもうまくいかない。

図書館に着くなり、館内の本に目が行ってしまい、

色々とつまみ食いして読んでしまう。

 

だから自分が読了したい本はいっこうに進まず、

帰宅のときを迎える。

 

もちろん今日もそのパターンを辿った。

自分の本に飽き、休憩のつもりで図書館をうろうろしていたら、

星野道夫という写真家の本に目が行き、手に取った。

 

アラスカの写真集を見ながら、

どんな略歴を持った人なのか気になってきたので、巻末を開いてみた。

結構有名な人らしく、世界的な評価のある写真家だったが、

私は今日始めてこの人を知った。

 

でも、もう20年ほど前に亡くなっていた。

 

死因はロシアで撮影に入っていたとき、

テントで寝ているところをヒグマに襲われたとあった。

写真家らしい死に方だと思った。

けれどなぜか私は、彼が40代半ばでこういう死に方をしたことを知ったとき、

気分が興奮してきた。

 

だが、さらに興奮は続いた。

本を読み進めるうちに、氏が20代のとき、親友を山の噴火で亡くしたことを知った。

氏はこの経験に苦しんだ末、

「好きなことをやっていこうと思った」という答えに行き着いたと書かれていた。

 

私はこの箇所でさらに興奮したのだ。

親友の死を経験して出した答えが「好きなことをして生きていく」だった。

私はその言葉を見たとき、自分の身体が少し震え始め出したことを感じた。

私はその言葉を見たとき、日常の義務的な自分や、モラルや常識に囚われている自分から解放され、

新しい世界に自分の心が開いた気がした。

 

私はいつしか自分を忘れて、星野氏の写真集を読んでいた。

久しぶりの没頭であった。

私は普段、会社でもプライベートでも他人とあまり打ち解けず、

神経質で慎重である。

そんな自分が周囲を忘れて、没頭できたのである。

 

私は星野氏との出会いにより、心が開いたのだろう。

感情的なエネルギーを、氏の写真集からもらった。

おそらくこれが生きるということなのだろうと思った。

 

日常の規範意識や義務感に心が解放されて、

ありのままに何かを感じることができた。

「自分は~しなければならない」とか

「自分は30過ぎの男としてこうである必要がある」という

規範意識が吹っ飛び、私は星野氏の世界に入っていけた。

 

魂がこもった作品とは、観る者の道徳と義務を吹き飛ばし、

社会的になり過ぎた人間を野生に連れ戻してくれる。

私はその草原で、魂の火を燃やして、感情を一杯さらけ出して走ることができる。

もうそこでは他人に嫌われることや好かれることを気にしている自分はいない。

他者の評価や視線が何の意味も持たない世界で、私はとても自由に生きている。

 

「生きるということは、自分が生き残るために他の誰かを犠牲にすること。

これが生の本質だ」と星野氏は述べる。

 

これが野生としての人間なのだろう。

 

そうして色々と考えていたら、日も暮れだし、腰が痛くなってきたので、

もうそろそろ帰ろうと思った。

本を元の棚に戻して、図書館の出入り口に向かった。

 

腰は痛かったが、気分は穏やかで少しばかりの興奮に包まれていた。

私の心は開いたままだった。

 

そこで事件は起きた!

 

私が出入り口の扉を開けようとした瞬間、

ふいに少女が反対側から先に扉を開けてすっと入ってきたのだ。

おそらく中学3年~高校生2年ぐらいのその少女は、

私が出ようとした瞬間に、先に自分が入ってきたことに遠慮を感じていたのか、

私の目を見て小さなお辞儀をしていった。

 

そのとき、私の胸はドキッ!とした。

このドキッ!はもちろん恋愛的なドキッ!である。

 

まさかとは思うが、私は中高生にドキッ!と感じてしまった。

30過ぎの男がである。

おそらく星野氏の本を読んだおかげで、

自分の感受性がありのままに働いたのだろうと思う。

 

まさに星野氏の本によって「考えるな!感じろ!」というモードに自分がなっていた。

 

とすれば、私はありのままにあの少女を魅力的だと感じたのだ。

視線が合ったあの瞬間、私の新しい世界が彼女をそのまま捉えたのだ。

 

たしかに、私は恋愛経験値が低いから、女性との接触に過剰に反応してしまっているだけ。

そう考えることも可能だ。

けれどそういう言葉では物足りない。

そういう解釈では納得できない。

 

ただ感じるままに、私は感じただけなのだ。

すれ違った瞬間の少女のまなざしに恋をしただけなのだ。

ただただあの瞳が美しいと感じただけなのだ。

あの瞬間、私は何一つ考えていなかった。

私が考えるより先に、私の胸は鼓動を打っていた。

 

時に、私の思考は一人芝居の名人だ。

でも身体はいつも素人だ。

少なくとも瞬間的には素人だ。

 

少女の輝いた明るいまなざしを見たとき、

私の身体は素直に感じた。

何かを感じた。

思考はそれを「ドキッ!」という言葉で後から表現する。

「恋愛経験値が低いから過剰反応しただけ!」と後から言葉で表現する。

「未成年に恋するなんて!」と後から言葉で表現する。

 

私は思考のこの「後出し言葉」のどれを選んでもいい。

すべて自由である。

でも、身体が瞬間的に何かを感じたことは真実だ。

それだけは確実なんだ!

 

考えるな!感じろ!

星野氏にはこのことがどういうことか教えてもらった。

 

好きなことをして生きろ。

好きなことをして生きていい。

好きなものには、好きだと素直に感じていい。

 

それが新しい世界で生きるということなら、きっとこの世界は

今以上に生きている感じがする世界なのだろうと思う。

 

長くなったが、今日はとてもいい日だった。

彼女のやさしいやさしい瞳。

そして、すれ違いざまに私に見せた優しい微笑が

私を生に戻してくれた。

あぁいい日だった。

 

思えば、人生どう転んでも虚しいこと、面倒くさいことだらけである。

ならば、また図書館に行こうじゃないか。

なあ相棒(読者)!?