俺の言葉のゆりかご

ネット制限によってワクワクを取り戻す!

人生は大当たりのない宝くじだ!基本的に苦しく、虚しく、たまに1000円程度の当たりがあるだけ。

生きることって本当に無意味だ。

何の価値もない。

この世界に人間が存在すること、

それに基づくありとあらゆる事柄、

この世界のすべて、すべてどうでもいい。

むしろ、ないほうがよかったのかもしれない。

 

人間として生まれ、死んでいく。

このプロセスには何の意味もない。

苦しい人生も、楽しい人生も、無味乾燥した人生も、充実した人生も、

すべてどうでもいいことだ。

 

自分に正直に生きる?

それが一体どうしたと言うのだろう?

自己実現したとして何の意味があるのだろう?

経済力をつけ、自分の好きな環境を作り上げ、豊かな人間関係に囲まれ、

そして夢中で取り組む仕事をしたとしよう。

 

それが一体なんだというのだろう?

俺がその生き方を実現したとして、一体なんだ?

経済的成功がどうした?

女にモテてそれが一体なんだ?

夢中になって楽しめる仕事があって自己実現できているからどうした?

 

この世界は一体なんだ?

気づけばわけも分からず勝手に産まれさせられていて、

日本語を話し、他者との関係性の中に放り込まれ、

やれあれをしろ、これをしろと

社会性を身につけさせられ、

そうして毎日毎日似たようなことを繰り返して働いていく。

 

その間に恋愛だの、結婚だの、趣味だの、病気だの、お金の問題だの、

無数のことが起きて、老人になっていく。

 

そして、最後は死にたくなくても死ぬ。

勝手に産まれて、勝手に死んでいく。

始まりと終わりを何一つコントロールできない。

 

なんだこれ!?

ほんとクソだろこれ?

わけが分からん。

人生ってわけがわからん。

 

人間存在そのものがもうイカれている。

見方を変えれば、人間はイカれたパントマイムを日々演じているのだ。

 

平日、組織人として働いている間は思考停止して仕事に打ち込めるから

こういうことは考えない。(仕事とは、人間存在の虚しさと苦しさに反抗する最高の手段だ!)

 

だが、週末に家で一人佇んでいると、

どうも人生というものがアホらしく思えてきて仕方ない。

人間として存在していることが、

とても残酷に思えてくる。

虚しく思えてくる。

家のじゅうたんでゴロゴロしているときに、こういう考えに襲われると、

本当に立ち上がる気力をなくすほどしんどくなる。

 

人生とは、参加しようとした覚えがないにも関わらず、

気づいたら走らされているマラソン大会に似ている。

気づいたら走らされている。

 

一体なんだこの残酷さは?

俺が一体何をしたっていうんだ?

 

それにしても、こう思うのは、俺の頭がおかしいのか?

みんな時折、こういうことが頭をチラつくことがないのだろうか?

「人生ってほんと馬鹿らしくて、虚しくて、

つまらないもんだなぁって」思わないのだろうか?

 

自分をおだて、他人をおだて、俺はせっせと「生」という名のみこしをかつぎ、

「ワッショイ、ワッショイ」と叫びながら幸福と快を追究して生きている。

こうして俺は根本のところで自分を欺き続けながら生きているのではないか?

 

 

もう疲れた。

人生を真剣に見つめれば、死にたくなって当然だ。

分かるだろ!?

消えたくなって当然だろ?

明日から会社に行く気力を無くすのは当然だろ?

それとも人生はすばらしいものだろうか?

生きてきてよかった。

産まれてきてよかった。

そう思えるほど善いものなのだろうか?

 

人生はもう死にたくなるほど狂ってる。

もうすでに地獄だ。

 

疲れた。もう生きていたくない。

とはいえ、自殺しようとは微塵も思わない。

自殺したいとも、犯罪したいとも思わない。

覚せい剤やギャンブルに溺れて破滅したいとも思わない。

そういうことも含めて人生が馬鹿らしいから。

 

ネット依存を克服してそれが何だ?

これから自分がたくましく、優しい男になれたとしても、それが何だ?

それが何だが何だ?

 

もうどこにも出口はない。

魂も、神も、性欲も、自己実現も、どうでもいい。

 

すべてがどうでもいい。

生きているうちに人は変わる?

たしかに変わる。

でもそうしたことも含めてどうだっていいんだ。

 

もう俺はどうだっていいんだ。

自暴自棄になっているわけじゃない。

失恋したわけでも、借金に喘いでいるわけでも、会社でいじめられているわけでもない。

そうじゃなくて、俺はもう本当に人生に飽きたんだ。

もう嫌になったんだ。

こんなとこもうこりごりなんだ。

また産まれてきたいなんて言うわけがない。

ふざけるな。

人生なんてもう一度繰り返すほどの価値なんてひとつもない。

 

生きることも、死ぬことも、すべてにおいて価値はない。

ありとあらゆる言葉、出来事、意味・・・すべてが無用だ。

 

このブログもいつ消滅してしまってもいい。

もう俺の心はずいぶんと前から干からびてしまっている。

だからあれがどうなっても、これがどうであっても全部

消滅しまっていい。

 

人生ってなんだ?

意味が分からん。

いま、こうして生きていることって一体どういうわけだ。

あれがこうなって、これがこうなっている世界の構造って

どうしてそうなんだ?

 

言葉の意味という無限ループに閉じ込められたことで

俺の人生は始まった。

すべての根源は言葉から始まった。

必然的、直観的に言葉の意味を掴み取る習性が人間に内在している。

「む」と「い」と「み」をつないで「無意味」になって、

その言葉に紐づいている感情が脳内に走り、

脳内に神経物質が分泌されて、ある一定の反応が起きる。

 

この神経回路は破壊不能だ。

この回路なしでは社会も俺という存在も成り立たない。

そう、もう元通りには戻れないんだ!。

だから俺はずっと、このままずっと言葉の無限ループの中で生きていく。

いや、その中でしか生きられない。

 

消えたい。

死にたい。

明晰な思考と意識によって生み出された、

この純粋な2つの思い。

 

消えたい。もうすべて終わってもいい。

自分にも他人にも恨みはない。

したいことはまだまだあるが、それもどっちでもいい。

 

はぁ疲れた。

これからも俺は、

生きているようで死んでいる、死んでいるようで生きている。

そんな日々を生きていくのだろう。

いや、そんな日々しかもはや存在しない。

 

もう宇宙も神も他人にも怒りは感じない。

人生にはもう何の期待もない。

生きとし生けるすべてよ、

これからも勝手に繁栄して、進歩して、幸せになってください。

誰一人不幸になってほしいと思わないが、不幸になりたいならお好きにどうぞ。

 

疲れた。

消えたい。

死にたい。

でも自殺したくない。殺されたくもないし、殺したくもない。

誰かに救ってほしいとも、救われたいとも思わない。

 

ただ俺はもうどうすればいいか分からない。

この不条理極まる残酷なマラソン大会に強制出場させられて、

俺はもうくたくただ。

スタート地点もゴールもどこにあるか分からない。

競うべき相手が誰なのかも分からない。

リタイアを申し出る主催者すらいないこの不条理クソマラソン。

 

もうわけが分からない。

 

あぁ、それにしても俺の身体は懸命に今日まで生きようとしてきた。

俺は身体に引っ張ってもらって今日まで生きてきた。

本能に手を引いてもらってなんとか歩いてきた。

 

だが、理性は何一つこの事態に納得していない。

ぐずり続ける子供のように、俺の理性は納得していない。

絶対に絶対にこんなこと納得できない。

 

在ることに、もう疲れた。

もう誰も何も俺を癒すことはできない。

 

とにかく疲れた。

人として存在し、生きていくということに疲れた。

もういいではないか。

言葉よ、意味よ、もう俺をゆっくりさせてくれ。

 

もう見たくない。

もう感じたくない。

もう考えたくない。

もう楽しいことも苦しいこともいらない。

もう言葉も感情もいらない。

もうすべていらない。

 

不条理を生き、不条理を死ぬ。

すなわち、無意味さを生き、無意味さを死ぬ。

 

俺の言葉が枯れるまで、

俺の理性の涙が枯れるまで、

俺は語り続け、そして泣き続ける。

 

今日だらだらと書き連ねてきたことは、

負け犬の遠吠えだろうか?

よし、俺が負け犬だということは認める。

 

しかし、俺がこれから勝つにはどうすればいいというのだろう?

 

出世競争に負けたとか、パートナー争いに負けたとかなら、

次回勝つために腕を磨けばいい。違う所で挽回可能だ。

 

でも俺は人生に負けたのだ。存在しているということがもう負けなのだ。

 

神を拒絶する限り、俺はもう勝つことができない。

そのための努力の方法も技術も存在しないのだから。

ただひたすらこの世界に存在してしまったという負けを認めて、

明日からも生きていくしかない。

 

俺の理性は圧倒的大差で人生に敗北した。

 

真の負け犬は辛くて悔しくて遠吠えしているのではない。

次回に勝つ方法を失った負け犬は、悲しくて吠えているのだ。

虚しくて吠えているのだ。

 

理性にもはや勝ち目はない。

 

一つだけ出来ることといえば、

理性の本懐である「考え続けること」であろう。

それのみが、俺が生きているようで死んでいる、

死んでいるようで生きていることの証になるだろう。

 

負け犬として、声がかすれて出なくなるまで吠え続けよう。

書いても書いても書いても書いても、俺は苦しい。

こんなこと書くから苦しくなるんだよって君は言うかもしれない。

でも書きたくなるんだ。

俺にとって本当にしか思えないこと、

それを書きたくなるんだ。

 

書いても救われない、語っても救われない。

君がもし、強くなる方法がこういうことを考えないってことだと思うなら、

それは違ってる気がするなぁ。

人はたとえどれだけ病的で暗い内容のことでも、

それがその人の本当に語りたいことなら、

語ったほうがいいんだ。

 

たとえ誰かを不快にして苦しめたとしても、それは語っていいことなんだ。

もちろんそのことで社会から排除されるかもしれないけど、

それも仕方のないことだ。

 

だから俺はまたこういうことをブログに書くだろう。

休日の静寂の中、

人生の無意味さと虚しさにがんじがらめになったとき、

また書くだろう。

俺の心の深いところから沸いてくるこの毒素を抜くために、

俺はまた書くだろう。

 

苦しいから書く。生きていくために書く。

ただそれだけなんだ。

 

俺にとって人生は、

大当たりがもともと存在しない宝くじみたいなもんだ。

一等2億円なんて元々入ってないんだよ。

1000円のアタリが出ただけで奇跡なんだ!

つまり、そうすると

人間は幸福を第一目標に生きているわけではないってことだ。

 

スカだらけの人生を生きていくことによって、

人間であることを証明し続けているのだ。

こうして不条理の世界を生きることによって、

不条理そのものを秩序にし、

不条理な存在として自分を規定している。

 

人生が不条理なわけではない。

人間そのものが不条理な存在なのだ。