俺の言葉のゆりかご

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本当の自分について

本当の自分とは何だろう?

自分に最も適した仕事に就いて、イキイキ働いている自分のことを言うのだろうか?

自分が夢中になれることに没頭している自分のことを

言うのだろうか?

 

それとも、何一つ飾ることなく、自由気ままに寛いで、心がオープンになっている自分のことだろうか?

 

でも、もし何かしらの仕事の中に本当の自分が見出せるとしたら、

それはおかしいことにならないだろうか?

 

これからAIなどが社会に浸透していくにあたって、

なくなっていく仕事も出てくるだろう。

そうすると、今夢中でしている仕事も数年後にはなくなっているかもしれない。

いくら自分の仕事が天職だと思えたとしても、その仕事が社会に必要と

されない時期がいずれやってくるのだ。

 

とすると、仕事の中に本当の自分を見出すのは難しい。

 

では、自分を一つも飾ることなく、オープンな状態が本当の自分でいること

なのだろうか?

だとすると、それはどんな時だろう?

まっさきに思いつくのは、家族や親友や恋人の前で見せる自分の姿だろう。

そういうある特定の人たちと接するとき、心がオープンな状態になる。

だからこれが本当の自分だというわけだ。

 

でも、その相手がいなくなったら?

別れたり、死んだりして二度と会えなくなったら?

もう自分は本当の自分になれなくなるのだろうか?

 

そもそも本当の自分とは、水が氷になるように、

本当の自分でない「ある状態」から

本当の自分という状態に「なる」ことなのだろうか?

 

俺はそうは思えない。

本当の自分とは、仕事とか特定の他者の存在に依存するものでは

ないと考える。

 

イキイキして充実して人生を謳歌している自分。

自分を飾ることなく打ち解けられる相手に囲まれていること。

そういうことは本当の自分とは何の関係もない。

 

なぜなら、人生には運不運があり、不条理な面が必ず存在するからである。

重度の障害をもって生まれたら、イキイキして働ける仕事に出会うのは難しいだろう。

家族にも、友人にも、恋人にも恵まれない人もいるだろう。

 

だとしたら、今それらを手にしている人たちは、たまたま偶然だということでもある。

日本人として健康な身体に生まれ、人並みの知性を有すること。

それらは自分自身が一切関与できないことである。

しかしこの関与できない部分が人間の人生を大きく左右することは

誰でも知っているだろう。

 

だから、本当の自分とは、社会的に価値ある事柄において

自分が相対的に優位な立場にいることから、見出せるものではない。

やりたい仕事をしてものすごくイキイキしている人の心には、

満足感のほかに優越感もあるだろうと思う。

 

「私は好きなことを仕事にしています」

「私はこの仕事に命を賭けています」

ここに優越感を抱いているのである。

仕事に過剰なまでの価値を抱く人は、

無味乾燥した仕事に就いている人を少なからず見下している。

でも、これからの時代、いつ自分がその立場に成り下がるか分からない。

 

上にも述べたが、時代の流れによって、仕事そのものの社会的な必要性がなくなるからだ。

以前は、満足感と優越感をもって仕事をしている自分が本当の自分だったが、

今では無味乾燥した仕事に就いているので、これは本当の自分ではないと感じる日がくる。

 

また、仕事と本当の自分が密接に関わりあっているなら、

アフリカの貧困地帯、世界中の難民、一生病院暮らしの患者さんなどは、

もう完全に無関係だろう。

 

こう考えてみると、やはり、本当の自分は仕事の中には存在しない。

 

ではどこに存在するのだろう?

本当の自分とは何だろう?

そもそもそんなものが存在するのだろうか?

 

俺は存在すると考える。

本当の自分は、成長して「なる」ものではなく、元々「ある」ものである。

その意味でのみ「自分探し」という言葉は正しい。

では、どこに「ある」のだろうか?

もちろん自分自身の中だ。

だから旅をする必要も、転職する必要もない。

 

俺が思う本当の自分とは「在る」ことに最大の根拠をもつ。

社会的有用性を離れて、存在して生きている自分の生命に根拠をもつ。

 

「生きている」。その事実から本当の自分を発見することが初めて可能になる。

 

あるいは、「俺はどうしても~できない」とか「~したくない」

というような「やむをえずそうならざる得ない」自分の生き方や性格を、

俺は本当の自分と名付ける。

 

「~するぐらいなら死んだほうがいい」。そういう自分にこそ、

自分の心の奥深くに根を持つ固有の自分が存在すると思う。

変えることが難しくて、なおかつ変わりたくもない気持ちで固執する自分の生き様。

そこにかけがえのない固有の自分を俺は見出す。

 

本当の自分とは自分の命と存在をかけがえなのないものとして、それを最大の価値としている自分のことである。

本当の自分とは「やむをえずそうならざる得ない」自分の生き様や性格の中に見出す固有の自分のことである。

 

どれだけ変わっても変わらない自分を見つけたとき。

どれだけ捨てようと、変えようとしても変わらない自分を見つけたとき。

 

そのとき、人は本当の自分を自分自身の中に「発見」する。

そして、その自分の存在のかけがえのなさに気付き、

自分の深い部分を肯定して生きていくのだ。

好きになれなくても、自己嫌悪の風が吹こうとも、その部分と共に歩むほかないのだ。

なぜなら、いまとなっては「それが自分なのだ」と心底分かったのだから。

 

だから、俺がこの先もっとも大切にしなければならないのは自分の命と存在である。

そして、自分固有の捨てられない・変わらない・変えたくない性格や美学である。

しかし場合によっては、この二つの本当の自分は対立を起こす。

自分の命も大事だが、生き様や美学も捨てられない。

その矛盾が避けられない出来事が起きるかもしれない。

 

自分自身の尊厳を失う変わりに、他者との関係を壊さず世間的な価値を手にするか。

それとも尊厳を維持して、人間関係や社会から転落するか。

 

そのどちらに答えを出すのか?

身体の答え、感情が生み出す答え、理性が生み出す答え。

来たるべき状況が来たとき、そのどれを選ぶか俺は分からない。

衝動的に感情的な判断をするかもしれない。

身体が勝手に動き出すかもしれない。

じっくり冷静に何度も考えつくして選択するかもしれない。

 

道は遠く、人生永遠の課題だ。

しかし、どんな人間にも人生に一度はこういうときがやってくる。

そのときが来るまで、矛盾する二つの本当の自分を見失ってはいけない。

いつ、どんなときもこの自分を根底にして日々を生き、

自分の人生を豊かに実りあるものに「建築」していかないといけない。

この「土台」があるからこそ、何度でも人生はやり直せるのだ。

 

とはいえ、最後に断っておくと、

俺はものすごい苦痛を伴う身体的な病気になったら、

たぶん自殺すると思う。

本当の自分とかもうどうでもいいぐらいの痛みが

恒常的に続く病気になったら自殺するだろう。

先日亡くなった、ホーキング博士が罹っていた筋肉が固まっていく病気は

恐ろしすぎる。

 

俺なら自殺せず踏みとどまっていられないと思う。

 

ちょっと長くなり過ぎたが・・・以上、これにてOK牧場!!