俺の言葉のゆりかご

ネット制限によってワクワクを取り戻す!

誰一人感情を交換できる相手がいなくても、人生はある程度充実したものにできる

今日俺は有給を取り、

9時に起き、軽く朝食を摂った後、身支度を済ませて外に出た。

そして、コンビニに車を停めた。

ネットをするためである。

 

俺は去年の夏頃に、ネット依存症を克服するため自宅のネットを解約した。

そのため、インターネットを使いたいときはいつも無料Wifi設備からネット接続している。

その多くはコンビニの駐車場である。他にはイオンの飲食コーナーやジョイフルなどのファミレス

の駐車場から接続している。

 

今日は映画に行くため、ネットで上映時刻を調べ、ついでにアマゾンでちょっとした買い物もした。

映画時刻を調べ、映画館まで車を走らせる。

5月のすがすがしい陽気と、平日の比較的空いた道路はとても心地よかった。

こういうときに有給のありがたみを感じる。

 

映画館に到着し、車を降り、小走りで向かった。

俺の行きつけの映画館は毎週金曜は1,000円で鑑賞できる。

だから今日は2本の映画を観る計画を立てていた。

 

まず一本目は「クレヨンしんちゃん」の新作だ。

10時頃開始だったが、なんと観客は俺だけだった!

普通の人はこういう場合にさみしく感じるのかもしれないが、

俺は超ラッキーだと感じた。

誰もいない映画館で、周囲の人間を全く気にかけることなく、

映画の世界を独占できる。

 

こういうとき、「他人がいないことはなんてすばらしいんだろう」と心底思う。

自分の足を座席の前にほうり上げ、左右の座席に手を拡げ、

映画の世界に入り浸る。

なんという最高の贅沢だろう。

 

今日俺は富豪の世界をかじりとった。

 

おそらく、孤独好きな庶民ができる、最もコスパの高い娯楽は、

「誰もいない映画館で映画を観ること」だと俺は確信した。

今日俺は1,000円で映画館を貸し切りできたのだ!(笑)

 

こうして、しんちゃんを楽しく観終えたあと、

俺は昼食を買うため、近くのスーパーに出かけた。

 

店内を色々と物色しながら、人間観察も兼ねて他の客に目を配る。

それにしても、老人や主婦がほとんどである。

言い方を変えると、人妻とじじぃとばばぁばかりだ(笑)

 

俺はスケベで不純だから、こういう平日に買い物している主婦を見ると、

興奮してしまう。何か人妻に嫌らしいものを感じて、

店内の主婦の客に性的妄想をめぐらせてしまう。

 

おそらく、世間で不倫している人のほとんどは、

こういう時間帯にこっそりホテルに行っているんだろうと思う。

なぜかというと、働き盛りの男はほとんど店内にいなかったから。

自分の旦那がいない時間帯の絶好の時間が正午ぐらいなんだろう。

主婦にしてみれば、買い物という口実も作れる。

つまり、この時間は不倫のゴールデンタイムに違いない(笑)

 

脱線したので、話しを戻そう。

こうして俺は惣菜の焼きたてパンと弁当を買い、近くの

大きな森林公園で昼食をとった。

やはりこの時期に外で飯を食うのはとても気持ちよかった。

新緑の木々に囲まれて、咲き乱れるツツジの花を見ながら、

陽気な太陽の下、ひとりくつろいで飯を食う。

 

俺は友達や恋人がいないと、人生はつまらなくさみしいものだと思っていたが、

人生ってひとりでも案外楽しいものにできるんじゃないかと感じた。

少なくとも「一人=つまらない」という公式は成り立たない。

もちろんこの世に自分以外誰も存在しなかったら、俺は絶望して自殺する。

 

けれど、不特定多数の他人が周囲に存在し、その中で自分が一人行動して余暇を楽しんだり、

自分の世界を掘り進めて人生を充実したものにすることはできる気がする。

 

言い換えれば、打ち解けられる人間関係が全くない孤独な人間でも、

人生はある程度充実したものにできるということだ。

 

さらに言い換えれば、孤独な人間は、周囲の他人との心の交流はほとんど必要としない。

けれど、不特定多数の他者のまなざしや存在感を感じられさえすれば、それで十分なのだ。

一人でも十分人生を生きていける。

 

この場合の「生きていける」とは、精神的な満足感や充足感という意味であり、

ほのかなワクワク感やささやかな喜びという意味でもある。

 

だから俺のような孤独な人間は無理に友達を作らなくていいのだ。

無理に他人と打ち解けようとしなくていいんだ。

たとえば、友達を作ろうと思って、余暇に茶道教室やフットサルを始めようとする。

俺は無理にそういうことをしなくていいんだ。

そういった、みんなとガヤガヤ協力し合っていくタイプの生き方は、

俺に「合っていない」んだ。

 

だから俺はこの調子で、一人の孤独な時間を謳歌すればいいのである。

 

 

さて、昼飯を食べた後、俺は2本目の映画を観るため、再度映画館に向かった。

上映まで時間があったので、駐車場で一眠りして過ごした。

 

それにしても、5月はなんて過ごしやすい季節だろう。

暑すぎず、寒すぎず、人間が一番活動しやすい最高の季節だ。

夏も冬も一ヶ月ぐらいで十分だ。後は全部5月でいい(笑)

 

さて、2本目の映画だが、「ホース・ソルジャー」という映画を観た。

戦争物で比較的最近の映画だった。

指定席だったが、客は10人以下。

やはり、孤独好きな人間が映画を観るときは、客が少なければ少ないほどいい。

店にとっては恐ろしく採算の悪い商売だが(笑)

孤独好きな人間は、余暇の外出は客のあまりいない平日の行動が向いている。

服を買うのも平日、飯を食うのも平日、映画を観るのも平日、旅行するのも平日・・・

主婦とじいさんばあさんに混ざって行動する、それが孤独であることを選んだ人間

の余暇の過ごし方だ。

 

ところで、映画は悪くなかった。

俺としては、再鑑賞に堪えられる出来だった。

 

こうして、2本の映画を観たのだが、ほとんどさみしくなかった。

むしろ一人のほうがよかった。

 

打ち解けれられる他人。

俺はそういう存在がいない自分にさみしさを感じることがときおりあるが、

俺はそういう他者がいなくても生きていける人間なんだと思う。

こうしてブログを通じて不特定多数の他者に発信する程度で十分なんだと思う。

 

だからか、「孤独死」という言葉を聞いてもなんとも思わない。

誰かに看取られて死にたいという欲望は沸いてこない。

愛する人に手を握ってもらいながら死にたい気もしないことはないが、

70年、80年も生きてきた自分の死の間際など、どうでもいいことのように思える。

負け惜しみでもなんでもなく、本当にそう思う。

 

もし俺がガンで死にかけている時、誰かがそばにいてもいいし、いなくてもいい。

俺にとって孤独死はその程度の問題だ。

 

終わりよければすべてよしが然りならば、

過程よければすべてよしもまた然りだ。

 

孤独好きな人間は臨終間際ではなく、日々の過ごし方に目を向けたほうが

メリットは大きいと思う。

 

 

さて、今日はこれだけではない。

映画のあと、俺は一旦帰宅して睡眠をとり、

午後6時ごろに詩の朗読会に出かけた。

 

目的地に到着し、プロの朗読する詩に聴き入り、

幻想的で、芸術的な雰囲気を味わうことが出来た。

 

 

こうして俺の一日は終わったのだが、軽く振り返ってみよう。

朝9時におき、映画を2本鑑賞し、昼食を森林公園で食べ、

夜に詩の朗読会に出掛けた。

 

その間、俺は一人だった。でもほぼさみしくなかった。

家族・友達・恋人同士などを見ると、多少惨めな気分が

沸いてきたが、どうということはない。

もちろん友達や恋人がいたほうが楽しいと思う。

 

でも一人でも、ほのかな喜びや、穏やかな気分を満喫することはできる。

それは親しい人と共有する喜びには劣るが、

でも決して干からびた感情ではない。

明日を生きるための、ささやかな活力となり、小さな栄養ドリンク的となる感情だ。

自己欺瞞の限りを尽くして「俺は孤独でも楽しいんだ!」と自分に言い聞かせているのでは全くない。

 

 

孤独でもある程度は人生を充実したものにして生きていける。

豊かな人間関係のネットワークがなくても、

携帯に誰も登録する友達がいなくても、

それなりに孤独な人生は「プチエンジョイ」できる。

 

今日の経験を過ごしてそれが分かった。

ただそれには以下の原則があることも分かった。

 

1:余暇の過ごし方を計画すること。

→自分には孤独な生き方が合っていると決めたのなら、もはや余暇の時間の使い方は

完全に自分の手に掛かっている。

かつて俺がネット依存症だったように、人間は無制限の状況を与えられると、かえって

悪にはまったり、だらけてしまう傾向がある。

そのため、余暇に時間を完全に自由に使える孤独な人間は、これを肝に銘じておかねばならない。

人間は何かしらの抵抗・制限するものがあってこそ、鍛えられ成長するのだ。

重力があってこそ、筋肉が成長する。

 

孤独好きな人間にとってはこれは「余暇の計画」にあたる。

余暇をきちんと計画してこそ、満足感もそれなりにもたらされる。

換言すれば、革製品のように孤独が自分の生き方に合ってくる。

余暇を計画しなければ、ずっと固いままの革靴を履いているようなものだ。

思いついてどこかにふらっと出掛けるとか、さみしさで衝動的に行動するではいけない。

 

たとえば、俺の今日の予定は一週間ほど前から計画していたものだ。

金曜日に有給をとってオトクに映画を数本観に行く。

かなりおおざっぱだが、たったこれだけでも、計画した場合と、

そうでない場合の充実感は変わってくる。

だから必ず、休日はどう過ごすか計画しよう。

 

 

2:友人や恋人がいる人の生き方を尊重し、認めること。

上記の人々の生き方を羨んでいては、いつまでたっても、

孤独に磨きはかからないだろう。

「ひがみ」を持ちながら、そういう人たちの生き方の反動として、

自分が孤独を選んでいるのなら、それは孤独好きとは言えない。

「一人でも平気だもん!」という反発心を彼らに向けている限り、

孤独の芽は育たない。

 

あくまで、俺はこのライフスタイルを選んでいるのだという「自覚」がいる。

俺にはこういう生き方が合っているのだという「納得」がいる。

俺には人と打ち解けあったりするのが得意じゃない面があり、

それを改善するのはもう人生の無駄だと感じていなければならない。

親しい関係性がある人々のようになることを目指すと、

自分は恐ろしく心身を消耗することに気付かなければならない。

たとえば、俺は休日に一人で行動し、服を買い、髪を切りおしゃれをし、飯を食い、旅をし、プラモを作り、本を読み、図書館に出掛け、

映画を観、各種イベントに出掛け・・・

そういうスタイルが自分自身を生かし、自分の魅力を輝かせる「最も適した道」だと信じなければならない。

 

孤独が好きになった理由はもはやどうでもいい。

そこには心理的な傷がもしかしたらあるのかもしれない。

けれど、それはもう治す必要はないのだ。追究すればいいのである。

どこまでもどこまでも、孤独でも「ある程度」充実して生きられる道を

求めていけばいいのだ。

思い返すと、人と打ち解けようとすることで感じる心身の消耗。

人と打ち解けられない自分を責める辛さ。

他人と関わりあっていても、心に感じる空虚感。土台のない不充足感。

 

これがあったおかげで今の俺の生き方があるのだ。

他人に対する「こういう」感じ方。

俺の人生を今まで貫いてきた「この」独特な感じ。

 

これが今の俺を作ったのだ。

 

どうやったら人と気さくに関われるのだろう?

どうすれば色々な人に心が「開く」のだろう?

人と人とが気さくに触れ合っている感じ。あの感じは技巧なのか、

それとも自然にああなるのか、どちらだろう?

なぜみんな器用に他人とやっていけるのだろう?

 

今日までの人生、俺を悩ませてきたこれらの問いはとても辛いものだった。

でも、もうこれからはどんどんどんどんなくなっていくだろう。

自己嫌悪に悩まされることも少なくなってくるだろう。

 

もう家族や友達や恋人はいてもいなくてもどちらでもいいのだ。

もう無理に他人と打ち解けようとしなくていいのだ。

 

友達や親しい間柄は自然に、普通にできるもの。

そう俺は考えているが、30年近くたっても俺にはいない。

だとしたら俺のどこかが普通ではない。

歪んでいるか傷ついているのかもしれない。

でも、もうこれでいいのだ。

 

友達がいる人も、恋人がいる人も、人間関係に恵まれている人も、そして俺のような

孤独な人も充実した人生を送れるように生きればいい。

ただそれだけだ。

普通から外れたならば、その外れた道を歩んでいけばいい。

後戻りしても、押し戻される不毛な努力があるだけなら、

しっかり、地道にコツコツと、その道を踏みしめていけばいい。

孤独を踏みしめていく。孤独を味わいつくしていく。

 

しかし、街中で仲睦まじく歩く人々を見て、惨めさが沸いてきたら、その気持ちは必然だ。

「俺は孤独で、一人ぼっちなんだ・・・」

でも、その考えや感情はストップできる。諸行無常、ただ流していけばいい。

あるいは、そういう感情にとらわれたら、意識を変えよう。

「あの人たちはあの生き方が合っている。俺にはこういう生き方が合っている」と考える。

あの人もOK!俺もOK!

その習慣が身につけば、徐々にさみしさや劣等感は薄くなる。

 

自分が真剣に悩んで苦しんで出した選択は、基本的に正しい。

そう俺は確信している。たとえその選択をあとから後悔しても、

俺にはそれしかなかったのである。

 

以上、これにてOK牧場!!(^^♪